東京山中会の設立

◎第一回東京山中会総会開催

細部の総てが決まりいよいよ開催準備に入ることになりましたが、当時卒業者は当方の把握では山口高校を含め70期位までで、61期以降は当時は学生や社会人に成ったばかりの独身者の方が多く世話人も決まらないので詳細は掴めず、参加が可能な方は60期位迄なので、止むなく此処までとして一応会員の方は1,200名位で、この方々に出す案内状や宴会会場の設営や宴会の進行、料理の準備、予算や収支見通し等々結構多忙でした。

宴会は『ニューTOKYO』 にお願いして、メニューの選定、式場の飾りつけ、サービスのホステスの世話や費用の見積をお願いし、結果会費は一応1 人当たり1,500円となり、この金額は同窓会の費用としては当時としては少し高い部類ではと思いましたが、会場を宇部興産会議室を使用することでこの値段で出来る訳で、これで一応全部決まった訳です。

案内状・式次第・規約(案)の作成、案内状の宛名の記入、発送、返事の整理等の雑用がありますが、一番肝心なのは参加者数の確定で、その他来賓の受付、宴会場の設営、宴会の進行、料理等の出し物にも神経を遣いました。

事務局には400名近い参加申込みがあったと記憶していますが、当然不参加者も予測されるので、参加確実な数を約180名程度に絞り、立食パーティ方式に決め座席も期別に参加者数に応じて分けたり、各人の名札を作成したり色々と細かい作業が続きました。

会場準備は総会前日午前中より始まり総て終了したのは夕刻7時頃でした。一夜明けて11月19日、遂に山中会総会当日になりました。早目に会社に行ったら田中課長はもう出ていられたし庶務課の女子事務員も準備を手伝って呉れていました。私は、当日は仕事にはなりませんでした。

タ刻6時からの開会ですが手落ちのないように朝より点検を始め、昼過ぎには会場の準備に取りかかりました。なにしろ同窓会といっても実質は宇部興産で主催するパーティの様なもので主催者は社長の中安閑一であり、しかも元総理や現職の大臣がこの会合に見えるのです。

9階会議室では、午後3時頃より会場設営が始まりました。会場は中心にメインテーブルを置き、式次第やマイクの準備も終わり、会場の隅には先輩の方々のための椅子を用意し、マイクのテストも終わる頃には各テーブルには白布が張られ期別の表示や生花が飾られ、料理やビール・日本酒に取り皿や箸やフォークにコップが置かれ何時でもよいように準備は大体終わりました。宇部興産の社員の方々も物珍しげに見物に来て9階はごった返しておりました。会場外のエレベータ前ホールでは受付の準備が整いました。私と田中課長はてんてこ舞いでした。


昭和40年代の同窓会の様子(4)
受付は宇部興産の庶務課の女性にお願いして出席表のチェックやリボンの手渡し、コートや手荷物などの保管を行い、男性が会費の受取、資料の配付、会場の席までの案内等を行いました。早い方は1 時間以上前からお見えになり、こちらの準備が間に会わず面食らいました。5時過ぎよりエレベータが9階で止まる度に5,6名の方がお見えになりました。初めての同窓会とはこのような魅力があるとは驚きでした。何しろ200名近い料理を用意しての開催なので参加者が欠ければそれだけ赤字となります。今回は初回で先輩の要望を殆ど受けた形での会合なので多少の赤字くらいは先輩方がカバーして下さるという甘えはありました。しかし同窓会は一旦始めれば定期的に永遠に継続しなければならないし、さもなければ意義がありません。赤字は絶対に駄目です。これが田中課長なり私なりの信念でもありました。このため一定の出席者の確保は必要で、エレベータより降りてこられる同窓生の方々のお顔がお札のように見えました。

突然に周りが騒々しくなり目付きの鋭い頑強そうな方が数人ばかり現れ、その間に挟まれるように岸さんがお見えになったのです。恐らく彼等はいわゆるSPで、彼等は会合が終わり退席されるまで岸さんの後に付いて行動をしていたり無線でお互い連絡したりしながら身辺や会場の警備をしていました。安倍さんに対しても同様でした。

朝日・毎日・読売3社の記者も来られました。然も会費を払うと言うのです。彼らは招待していませんが、岸さんがお見えになるというので何かよい話でも…ということでの参加申し込みの様ですが会費は辞退しました。

時々 会場を歩くと参加者が多く、これでやっと赤字にならないとの安堵感を得ました。そして偉い方が全部揃われいよいよ開会となりました。