東京山中会の設立

◎東京山中会の設立(その二)


昭和40年代の同窓会の様子(3)
次は同窓会の開催の方法であります。なにしろ東京で始めて山口中学校の同窓会を開くので、先ずは発起人を決め、発起人会を開き皆の意見を伺い纏めなくてはならず、さらにそれと前後して名簿により各期より1名あて同期を纏める方を幹事役にお願いし、これらの方を会社にお呼びして幹事会を開き、各期の名簿の原稿を渡し同期生の調査・確認と取り纏めをお願いしました。

この幹事会は3度ばかり開催したと思います。ようやく各期の幹事もその気になられ、名簿はなんとか纏まりました。

ついで発起人会の開催と発起人の選任であります。

発起人会は一応宇部興産で行うことにして、会の名称や発起人や役員の人事などを決めなくてはなりません。岸信介・中安閑一両氏を軸に、名称は『 東京山中会』。会長は岸信介氏、副会長には宇部興産中安閑一社長のお二人にお願いし、事務局長は佐々木英治(宇部興産取締役)、事務局には田中庶務課長、常勤を永久(総務)、更に宇部興産社内の各期の田中(総務)・村上(機械)・田代(化管)・阿川(石炭)・藤井(機械)・中原(化学)・永久(総務)・土田(経理)・安永(管理)・堺(化学)等々が決まり、その他の宇部興産の山中出身者は全員で補佐を行うことに決めました。

然し当時は皆多忙で、平素は常勤幹事の私のみと言う状態でありました。

そして社外の各期別の幹事の方に宇部興産株式会社に集まって戴き幹事会を開き、第1 回の発起人会、総会の準備、発起人の選任、幹事の委嘱、名簿の修正提出依頼等を行うことにしました。

発起人の選任については卒業生名簿より知名人の先輩にお願いをして事前に了承を戴き、予め作成した各期の名簿により各期の幹事が1 人でも多く同窓会に参加の勧誘をプッシュをされるようお願いをしました。

準備万端整い昭和40年春頃、宇部興産9階会議室(注:当時、霞が関三丁目 特許庁の向い)でいよいよ発起人会を開催致しました。発起人には錚々たるメンバーにお願い致しご承諾を戴きました。以下の方々であります。(敬称略)

代表発起人岸  信介元総理 衆議院議員20期
中安 閑一宇部興産株式会社社長20期
発 起 人福島 孝一宇部興産株式会社取締役37期
佐々木英治宇部興産株式会社取締役40期
徳田伊之助元海軍少将・明治神宮復興協賛会(最年長)6期
高須鶴三郎東北大学名誉教授15期
今村 五郎星和不動産社長(元サッポロビール常務)25期
遠藤  伝遠藤伝不動産鑑定士(日本鑑定士協会役員)26期
武安 千春日本セメント副社長27期
板野  学KDD 副社長(元郵政省郵政局長)34期
渡会  浩渡会診療所所長(佐藤元総理の主治医)34期
岩崎 太郎証券新聞経営者35期
中野 正介日新貿易社長(福島氏と同期)37期
菅 博太郎中小企業金融公庫理事(後に、山銀専務)38期
安倍晋太郎農林大臣48期
中村 長芳岸事務所 岸元首相首席秘書48期

(注)佐藤 栄作氏(24期)はご多忙の為名前のみ

第1回発起人会の席で東京山中会の第1回総会を翌昭和40年11月19日に宇部興産9階会議室で開くということに決定しました。

発起人会はその後に2、3度開き、幹事共々色々とお願いをしました。

一方では会員の動静カ吹から次ぎへと判明し名簿の修正作業カ続きました。どうにか同窓会名簿が出来-上がりました。しかし名簿の修正作業は大変で、手書きによる修正が追いつけなくなり、後日宇部興産のコンピュータにインプットして貰いました。