東京山中会の設立

◎東京山中会の設立(その一)

昭和39年は山口中学校の創立九十五周年の前年に当たり、百周年を目途に講堂兼体育館を建設するということになり、同窓会を通して全国的に募金運動を起こし講堂兼体育館(注:講堂兼体育館の学校負担分、図書館の充実及び校史編纂の費用)をということで五千万円を集めるということになりました。

何故講堂兼体育館を募金でというのか?私は詳しい経緯は存じませんが、昭和39年秋口のある日同窓会設立の指示が宇部興産・中安社長より佐々木取締役(佐々木英治氏 40期)を通じて総務部庶務課長(田中稔也氏 47期)に指示があったようで、その後の或る日、庶務課長と私とが急遽社長室に来るようにと秘書室より呼び出されました。

恐る恐る中安社長のところに参上しましたらそこには岸さんがおられ、もう用件は終わった様でした。中安社長は私達二人を見るや直ぐさまこう言われました。

「今度のー山中が昔の山高の場所に移る。当然校舎は狭いので建て替える事になるが、其れとは別に講堂もいる。わしと岸さんはのー『 講堂兼生徒集会所』 を是非と県にお願いしたが、県はあくまで『 講堂兼体育館』 をと言って、わしが幾ら頼んでも、岸さんが幾ら頼んでも聞いて呉れん。生徒集会所は是非必要じゃが、其れを聞いてくれん。更にその上、そんなものには県は金を出せんと言うちょる(「言っている。」の方言)。そんなら、そんな金は要らん。俺たちでやる。めいめかたの事(山口の方言)はめいめでする。建設費の五千万円位の金は俺たちが作る。すぐ山中同窓会を作り、募金活動をしてくれ。田中は庶務課長なので忙しいが、永久お前は何処におるか?」「ハイ私は株式課におります。」「そうじゃったのー。興産の株は動かんから、お前は暇じゃろう。お前やれ。」と言う命令がありました。其処で岸さんは「中安さん宜しく頼みます」と言ってお帰りになりました。

岸総理・中安社長の中学生の時代は、県下には山口中学校しか無く、その後は各地に県立中学校が出来、宇部興産でも山中卒は余り多くはいない。幸い山中は歴史が古いので偉い先輩が多い。その上当時の宇部興産の中安社長が山中20期の大先輩であり岸さんとは同級で共に仲も成績もよく「俺・お前」の関係が卒業後もずっと続いているということで、急遽宇部興産がこの募金運動の中心とならざるを得ない状況になった訳で、募金運動の一環として東京地区に山中同窓会支部を作ることになり、募金活動の母体となる様に岸さんから依頼を受けた訳で、取り敢えず同窓会名簿を作成することになりました。それは昭和39年の秋口の頃のことであります。

先ずは名簿の原稿作りで、直ぐさま学校より同窓会名簿を取り寄せました。取り寄せた名簿は昭和35年の古いもので、それを分解して期別に分け在京者をピックアップし、集計して名簿を作る作業です。田中稔也氏は庶務課長で、庶務課長というのは誠に多忙なので作業は殆ど私1 人でやらざるを得ません。


昭和40年代の同窓会の様子(2)
当時は山中創立以来の全卒業生は約1万人位で、そのうち在京者は約1200名程度で、名簿を基に個別に電話し確認するのは大変な作業でしたが、不思議なことに約90%程度の消息は掴めました。中には古くから同期会をやっておられる期もあり、その期の責任者よりは山中の東京地区同窓会設立を感謝され、同期や近い期の方々の名簿を戴きました。

住所が不明の方はそれぞれ各人毎に幹事にお願いして電話して現状の確認をしました。名簿の原稿が出来ると原稿の清書し、印刷原稿を作成するわけですがこれがなかなか大変でした。当時はゼロックスの使用費用が高く、使用が許可制なので仕方無く許可の不要なリコッピーで原稿を作成しました。

住所の確認作業中の大きな発見は、人の住所は必ず見付けることが出来るということであります。多少の回り道はあるがそれを厭わずに調査を行い辿って行けば色々 な関係先を経由して次から次へと人間の絆は広がって行き必ず本人が分かる訳で、だから自分の所在はハッキリさせなくてはならない訳で、人間の絆とは不思議なものあります。