東京山中会の設立

52期 永久嘉祐
◎序…天下の山口中学校


手前 左から2人目が永久氏(東京山中会設立当時)
【 東京山中会】 という同窓会があります。これは山口県立山口中学卒業生(今は山口高校卒を含む)の内東京地区及びその周辺に在住する者で構成する同窓会で、この会は宇部興産株式会社(以下、「宇部興産」)が発足以来お世話をさせて戴いています。

この会は昭和40年11月19日に発足して以来、名称は『東京山中・山高同窓会』と変わり会則も整備され、本年(平成22年)で45年にもなります。最近は、毎年5月に東京で総会を開催しています。

発足当時は、先輩の岸元総理・佐藤総理・安倍晋太郎自由党幹事長、中安閑一宇部興産社長(当時)がご健在で、「日本一の同窓会」と3大新聞の記者から謂われていました。

私はこの【 東京山中会】発足のお手伝いをさせて戴きました。それは私が当時宇部興産の株式課に勤務していた関係でこれに関与させて戴いた訳ですが、今となっては当時これに関与した者で健在者は私一人のようです。何かの為にと退職後に暇をみては書いたり集めたりした諸々 のメモや資料により、東京山中会の発足の背景を改めて書き直しました。

私は山口県立山口中学校の52期で、昭和16年4月に山口中学校に入学しました。当時は「天下の山中」 をモットーに、先輩や先生に山中生としての誇りと節度を持って毎日充実して勉学と希望に満ちた生活を励むようにと厳しく指導されたものでした。

学校の校章は中学の「中」の文字をデザイン化したもので、当時の全国中学校校章コンクールで2等になったと聞いています。

私達52期生は、不幸にも入学の年(昭和16年)の12月8日には日米戦争に遭遇しました。時節柄勤労奉仕もありました。

しかし、次第に戦況が不利となり遂に昭和19年7月末(4年1学期終了時)には全国の中学校が一斉に閉鎖され、学生は学徒動員され、山中生3・4・5年は光海軍工廠水雷部に勤務となり、魚型水雷を作り、終わりの頃には人間魚雷を製造しました。

作業の暇な時に勉強をということで、一応教科書の用意はしていましたがそれどころではなく昭和20年3月末で4年修了のままで卒業ということになりました。年齢的には今の高校1 年です。現在では高校までは義務教育だというように謂われていますが、当時は大部分の小学生は高等科に進み、上の学校に行くとすれば通常は実業学校で、普通課程の中学校にはあまり進学しませんでした。何故ならば、普通の中学校は更に上級の旧制高等学校や旧制専門学校などに進学するための学校で、数も少なくまた上級学校に進学する者も少なかった当時、 ここに入れる者はただ学力があるというだけではなく上の課程に進学するに必要なある程度の資力が要るからです。

私の入学当時の山口中学校は少なくとも県下の一中で生徒は全県下よりは言うに及ばず海外(満州・支那・朝鮮)にいる郷土の先輩の子弟も相当居ました。


昭和40年代の同窓会の様子(1)
また昭和30~40年代の当時は政界は自由党の天下で、中心は長州。特に、山口中学校は岸信介、佐藤栄作(共に総理大臣)、安倍晋太郎(農林・外務・幹事長)が出た中学校で、山口県では伊藤博文をはじめ多くの総理を出しており、当時は重宗雄三(参議院議長)、田中竜夫(田中義一総理の子息、衆議院議員)林義郎等々錚々たる人物が出ており、また県内の大手企業の業績も良く、山口県は名実共に全国のトップの県でもあった様です。

中でも岸、佐藤、安倍の3人が共に姻戚関係であり更に共に揃って山口県立山口中学校卒業生であるという事で、一つの県から総理大臣を8名(伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三 なお、菅総理をいれると9名)も出しており、かかる県は他になく我々 若手で安倍さんをよく知っている関係者は「是非共安倍を総理に」を合言葉に『 安倍晋太郎を総理にする会』を結成して頑張ったものでした。

この事は後日私が仕事で各地に出張したり、また茨城県の高萩で仕事をしたりしたときに、地元の方より「長州は凄い」とよくいわれたものでした。余談ですが、私は安倍さんとは同じ剣道部で、良く可愛がって戴きました。